いま、これを書こうとした瞬間、
外から男と女がイチャイチャしていている声が聞こえてきた。
「あ〜〜んっ」
とか言ってやがる。
別にイチャイチャするのはいいが、レポートを解き終わって、
微妙に心地よい開放感を感じているもとで聞くと、
上から水でもぶっかけてやろうかと思ってしまう。
昨日も昨日で空いているだろうと思い、平日に博物館に行ったのに、
老人会のツアーでもあったのかやたら人がいて閉口状態となった。
まぁ、人が多いのはまだいいのだが、
凄くうるさいし、どうでもよいことを話している輩も多くて辟易って感じだった。
ただ、3割くらいの老人は、とても真剣に鑑賞していた。
死が身近な存在である老人にとって、密教などの宗教思想、および信仰とはどういった意味をもつのだろうか。
私自身が特にこれといったものを信仰しているといった意識はないし、
これといった思想を基としているわけではない。
ここで問題となるのが宗教の勧誘。
過去4回ほど家に来たことがある。
そのときの返答は大抵適当にあしらったけれど、
今度なにを信じているのか、と言われれば、
合理的経験論って感じで答えてみようか。
そもそも、合理的経験論といわれて(゜Д゜)ハァ?ってならない人間の言うことは、
聞くに値しないということですから。
これは演繹的帰納法って言っているようなものですから。
あぁ、でも演繹的帰納法ってなんかありそうだなぁ。
演繹した結果を帰納すればいいわけだから、
ようは必要条件が満たされることを示して、
そっから十分条件を示すようなものかしら。
まぁよくワカンネ。