お腹の調子が悪くなるほど、
なにか精神的に参っているみたいだ。
もうここ2,3日腸の調子がおかしい。
何が圧迫の原因なのだろうか。
さいころにも色々精神的に参っていたらしい。
幼稚園時代には青森の方言に馴染めず引きこもり、
小学校時代には転校のためか偏頭痛が多発した。
さいころに怖かったのは、
宇宙には終わりがない、といわれたこと。
無限の時間のなかで自分が死んだとしたら、
死んだ自分はどこで終われるのか。
もし宇宙に終わりがあるのなら、
終わったあとの世界はどうなっているのか。
そんなことを4歳だか5歳くらいのころに考えて、
怖くなって泣いた記憶が今でもある。
両親は私のこの話を聞いても笑っていただけだけれど、
正直、これを書いている今でさえ、
考えるだけで胸が締め付けられ、吐き気がする、泣きそうになる。
そういうわけで、私は歴史が感じられるものが微妙に好きだったりする。
末法思想が蔓延していた平安時代末期においては、
彼らにとっての世界は秩序を失い生きるべき意義もなくなっていった。
浄土信仰にはしるもの、弥勒信仰にはしるもの、
おのおの世界が終わることから逃げるため、往生信仰が蔓延した。
そういった時代に出来たものなどのなかには、
たいした知識もなく、信仰しているわけでもない私でさえ感じるところをもつものがある。
当時の民衆も知識のない人が多かっただろう。
そういった人間に浄土とはどのようなものか、
を理解させることが出来るように寺院が作られているからなのだろう。



最近気に入っている一人遊びは、
あることをAとしたときの否定を考えたり、定義を考えたりすること。
主に否定を考えているか。
例えば、「宇宙に終わりがない」
ということを否定するならば、
「終わりのない宇宙がある」
におそらくなるはずである。
しからば次には終わりとは何をもって終わりとするか、
と考える。
連続が途切れることを終わりとすると、
必然と宇宙が連続である、と仮定している。
では連続でない宇宙はあるのか、となる。
また、連続でない、とは、
空間的に連続でなくなるのか、
時間軸的に連続でなくなるのか、と考える。
そもそも、宇宙上で時間軸が成り立つとは必ずしも言えないだろうから、
終わりを司る軸はなんになるのか、となる。
まぁ終わりがない。
それとはまた別に、行列にはN乗したら零行列になるベキ零行列ってのがある。
話は変わって瞬間移動装置があったとする。
瞬間移動する二点を、すっごく大きなスケールからみれば、
線形写像になるかもしれない。
ってことは線形写像の中にはベキ零行列で表される写像もあるかもしれない。
そうすると、N回瞬間移動すると消えてしまうなか、とか。
そんなこと考えながらバイトに向かいながらチャリをこぐ。