生首に聞いてみろ/法月綸太郎

法月綸太郎は「生首に聞いてみろ」を読み終わり。
ページ数が490ページ弱だったので正直読むのが辛かった。
なんとなく、「法月綸太郎=短編小説」みたいに捉えていたから。
といいつつ読み始めれば面白く、というわけではなかった。
ロジカルな推理が売りな作家さんだからだろうか、
全体的に文章が堅いように感じる。
そして、情報の小出し具合がたまらなく都合が良い様にも感じた。
しかしながら、論理矛盾を含まないし、途中からほぼ全ての情報が提示されてくるわけなので、
徐々に読み手の推理、とまではいかないけれど、直感的に思いつく事件の背景が正しいかどうか、
を徐々に絞り込めていく、という工程を楽しめた。
なんだかんだいって、最後の100ページくらいになると、
淡々と探偵である法月綸太郎の推理が語りだすのだけれど、
ここらへんになってくると一気に読み進めてしまった。
感想として、私の感じるミステリー小説によくあるパターンであるようには感じる。
というのは、大雑把に言って、地の文や会話中、もしくは作中で、
関係がないであろうと一読しただけでは思ってしまうような短文で書かれたる情報や、
ふと書かれる薀蓄めいた情報が鍵になったりするパターンってこと。
んで、この小説のメインは石像をつくる芸術家の遺作にかんするお話なのだけれど、
そのなかで、鏡像についてのお話がある。
ここでちょっと思ったが、小説自体を鏡像というか、シンメトリー状にしたほうが面白いのでは、
って思った。
なんていうか、重力ピエロとかも全体的に大きく捉えればシンメトリーのような。
んまぁ、そんなことはどうでもよくて、一番気になったのは、
今回は先も書いたが芸術家はジョージ・シーガルという芸術家を基に作られている、
作中にもシーガルについて軽く書かれているし、登場する作品もシーガルの作品を基にされているのだが、
ここで気になるのは、シーガルの作品、およびシーガルについて知っていたならば、
ここで書かれている推理とは別の切り口から推理できるのか、ということだ。
ここで思い出すのが手品と推理小説の違いの話。
手品も推理小説も謎を提示するのは同じ、違うのは、手品は謎を謎として楽しむところ。
推理小説は、謎が提示されるという前提のもと、
謎のタネを教えてもらえるのが前提で、考えるのが楽しめるところ、
というお話。
なんというか、ここまでシーガルのことを書かれていると、穿った読み方かもしれないが、
シーガルについての情報も何か別の謎の答えになっているのではないか、
と、「このミステリーがすごい!」の第1位の作品だけにこれだけではないだろ、と思ってしまう。

生首に聞いてみろ

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