最近は本当によくどうでも良いことを考えることが多い。
「解くという行為を形式化は出来ないのか」
とか、
「解法を閃く、というのは何か、またなぜ起きるか」
と常々考えているのだけれど、
家庭教師などのバイトをしてて、なぜそう考えるか、
と聞かれたとき、こうすれば解けるから、ではなく、
こういう風な経路で考えればよい、と言えるなぁ、
なんておもっていたりして、
上の命題を示してやろうと考えていたが、
そのこと考えていたら、
というか、そもそも上の2つの根幹であろう、
「考える、という行為を形式化できないのか」
もよく考えている。
私の今のところの「物事を考える」という行為の答えとしては、
物事をなるべく正確にとらえたいというところであろうから、
細分化するか、もしくは対象をシンプルに形式化することにしてる。
大抵、まず細分化する。
ついで、その細分化したものに対し、疑問点を挙げる。
このときにこれは自明だろう、とか、いかなる理由であろうと削らない。
次はその疑問点に対し、対偶、逆、否定をとってみる。
これで疑問点が解決すればよし、しなければ、
さらに細分化する。
これで細分化できない、と感じたら、そこを解決すれば、
上の階層の疑問は解決できるはずである。
解決できなければ、そこで止める、無理に答えを決めない。
ここまでくれば、大抵知識不足が原因だ。
これを繰り返した後、今度は対象をシンプル化していく。
削れる部分は削り取る。
最近は考え事があったら、このようなプロセスをとってみてる。



んで近頃は、「いかなる問いにも必ず答えはあるのか」…☆
ということを考えている。
答えがある、というのは、
例えば、フェルマーの最終定理は成り立たない、
っていうような、それは違うよ、というのが分っちまえば良くて、
正しい答えが言えるか、もしくは否定できるもののことね。
例えば、
「いかなる数もひたすら2で割っていき、割り切れなくなったら3倍して1足して、
また2で割っていき、……、というプロセスを経ると最終的には4・2・1・4という、
サイクルになるよ」
ていうのは、確か、正しいとも違うともまだわかんなかったはず、
みたいな感じね。
でね、私は必ず答えがある、と予想して証明というか論証できんかな、
と暇なときに考えているのだけれど、
最近思いついた証明は、知識全体の集合という位相空間と、
問い全体の集合という位相空間を強引に考えだせば、
その間に連続写像が存在することを位相空間の定理から示して、
写像が連続だからいかなる問いも答えられるはずだ、
なーんて考えてみたけれど、
知識全体を位相空間として考えたかったのなら、
位相空間の定義から、知識全体を知る者と、如何なる知識も知らない者、
の存在が必要になってきて、
それっていうのは、
プラトンイデア論やロックのタブラ・ラサなんかを認めることになって、
そうすると、
プラトンイデア論は正しいのか」
という問いは、☆の命題に含まれるわけだから、循環論法になっているなぁ、
なんて考えていると無為に時間が潰せるので、
暇だけれど暇ではないようなわけわかめだ。